昭和五十六年八月十一日 朝の御理解
御理解第九十二節
「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ」
神は一体じゃによってとおっしゃっておられます。神様は一体なんだ。拝む者も言うならば、まあ分かりやすく言うなら、拝み方とでももうしましょうかね、拝み方、異いで比礼が異うのぞとね。例えば、富士山頂を目指すというても、言うならば、登ろうと思えば四方八方から登れるでしょう。ね。けれども、やはり道がある。しかもまあ、車ででも何合目までは行けるというように、はっきり道があるのにも関わらずね、わざわざね、下から見る頂上というのは一つですから、どっからでも無茶苦茶に、こう登るというてもね、なかなか難しい。ね。その道に基づいて頂上を極めるのですから、私は合楽の場合、思うのですけれども、その道を誰でも登ろうと思えば登れる道を説くのです。しかも、嬉しゅう楽しゅう愉快になれる道なんです。ね。険しい、言うならばいばらのような道を作って登ると、いばらのような道だと言う人もあります。けれども、金光大神が教えておられる道は、ね、いわゆる心一つですべてを作ると仰せられるその心の使い方、頂き方、そして限りない心の進展と申しましょうかね、心が高上していくというそういう手立てが、私は合楽理念。それを言うならそのように分かりやすく説き、同時にそこにおかげが違うと仰せられる、おかげが伴うてまいりますところに、今日の合楽があるのじゃないかと思います。ね。神は一体じゃによってとこうね。
極める頂上は一つだと、こういうわけなんですね。それこそ、さまざまな所から登って結局、薮の中で終わってしまう。頂上を極める事も出けない信心とか、宗教も沢山あろうと思うですね。いわゆる薮蛇になってしまう。ね。私は合楽の場合はね、これがね間違いなく頂上を目指して、お互い進ませて頂いているんだと。
昨日のお月次祭の中にもお話しを致しましたが、このお話はくり返しくり返ししなければいけないなあと思う事は、神徳のめぐみの中に神ありて。という事である。ね。神徳のめぐみの中に神ありてと。同時に、氏子あっての信心神徳という事である。皆さん、ここん所を本気でね、心で捕らえてまいります所に、私は信心の絶対性といったようなものが生まれてくると思うんです。
神様と私共の、言うなら関わりあい。関係というものは勿論教祖が教えておられるようにね、親子の情念をもってとこう、だから私共が親を思う情念を持ってという時に、情と情とが通い合う。ね。
ただ聞けば分かる、教えて頂けば成程と合点のいく神様、ははあ金光教ではそういうとこ、そういうのを神様なんだなあと。一掬いの水だって一粒のお米だって、天地の御恩恵なしにはありません。ね。御恩恵の中にこの一粒があり、一掬いの水があるのである。ね。そこに神様を見るという神様。だからこれは説明をすると、信心があっても無くてもそう言いやそう。それがやっぱり神様だと言う事になります。成程それが神様の御神徳の現れだという事にもなります。御神徳が露出すておられる。ね。目には見えないけれども、吸わせて頂いている空気もやはりそうなんだという、もうすべてに神様の御神徳の中にある。そこを教祖は、神の中を分けて通りおるようなもんじゃと、こうおっしゃっておられる。ね。そういう意味に於ての神徳。ところがもう一つ、恵みの中に神徳の恵みの中に神ありてと、そこん所に私は同じ一体の神様であってもね、氏子の芯のあるなしで答えが違ってくると思う。ね。「信心して霊験のあるを不思議と言うまじきものぞ」と「信心して霊験の無きぞ不思議なる事ぞ」と。五と五をたせば十になるんだと、男女が合体すれば子供が出けるんだと、もし子供が出けないならば、どちらかに故障がある時だ。五と五をたして十にならないなら、計算の方を間違えておるんだと。ね、というように自分の信心の焦点を絶対なものにおいて、それに近づいていくという信心。はあまあだ計算が違っておる。まだどこにか神様の気感に通なわぬものがあるとして、日々に改まる事を第一とし、本心の玉を研く事を第一とする。その本心の玉を研く事も改まるという事も、とてもとてもなかなかと思うておったのが、合楽理念に基づくと、そこんにきが楽しゅう出けていくという事。そこに心が開ける。開ける心におかげがある。
昨日のお月次祭の最後に申しましたように、延岡で共励会が毎月あっております。今度の共励会にはこっから先生方が回名ですか、それに文男先生と戎浦さんがおいでられた。延岡であります宮崎支部の方、宮崎からも来る、高鍋あたりからも来る、まああっちこっちから日向、高丁秋あたりからも皆、その先生方が見えるというので、皆集って沢山集ったそうです。
その共励会で、先生方の話しがとにかく有難かった。これは高鍋から参ってきた或る夫婦の話しなんです。夫婦で参ってもうよかったね、よかお話し頂いたねというて、喜び一ぱいで帰らせて頂いた。息子さんが此の頃、全然ものを言わなくなった。病院にこりゃあ入院させにゃいかんじゃろうと、いわゆるノイロ-ゼからきたものでしょうね。まあ夫婦の者が、それこそ喜びに喜び勇みに勇んで、お参りをしてお話しを頂いて、喜びに喜びで帰った。ところが息子がいつもと違う。お母さんお帰りなさい、お父さんお帰りなさい。そして、もう前とひとっつも変わらんようにお話しをする。もう僕は今日はもう頭がすっきりして、とても嬉しい。それで近所にやっぱノイロ-ゼで病院に入院しておられる方がありまして、その方の願いもしてがざいますが、そこに、お母さん僕と二人でお話しに行こうじゃあないかとまで言うてくれるようにおかげを頂いたと言う、お礼の電話がかかって来た。ね。成程、この方の道は喜びに喜んで開けた道じゃからと仰せられるが、ですから例えば、そのお話しを伝えた先生方の信心と言うものがです、勿論、合楽理念に基づいて自分がおかげを頂いた事、自分が分かった事を一生懸命にお話しをして、その例えばお話しが一つも感動もないね、理屈だけは言うならば上手に話された。笑わせたり泣かせたりして、まあ上手にお話しをする人もございますけれども、それでなら心に喜びが頂けるという事ではないのである。ね。いうならば神徳の中に、神徳の中にね、めぐみ神があるといわれておるそれがね、なからなければ人は助からんのです。ね。人が助かるという事は、ね、今申します大きな意味での御神徳。現代医学ではどうにも出けないという、言うなら病人が信心によって助かるという、言うならば御神徳のめぐみの中に神ありてという神。そういう神を感じておられる教会。そこに神は一体だけれども、おかげが違うという事になってくるんじゃないでしょうか。理論の中にある神ではなくて、御神徳の不思議な不思議な働きの中にある神を体得しておられる神様、いや体得しておられる先生、体得しておられる教会。一体だけれどもおかげが違うというのは、合楽の場合はそれをなら、先生だけが体得しておるのではなくて、皆さんにもその不思議なと言うかまあめぐみ、神徳のめぐみの中にある神様を、一人一人に分かってもらいたい頂いてもらいたいというのが合楽の信心。なぜ、それはね神の情念、氏子ありての信心だよ氏子ありての神徳だよと、牛にも馬にも猫にも犬にも可愛い、とは同じでしょうけれども、ならお前達信心をしてくれとか、さあ神徳を上げるからというても分からない。それが分かるのは人間氏子、お前達だけなんだという神様の情念に私共が触れた時にね、そういうおかげを頂かせてもらう事をもってね。
ある苦しい、とにかくどうにも出けない、神様の前へ御祈念させて頂いて、もう自分の苦しい事を神様に申し上げさせて頂いて、ふと自分の心に感じた事は、自分がこんなに苦しんでおるという事は、神様はそれに もして嘆いておられるであろう、苦しんでおられるであろうと思う時に、神様すみませんという心が生まれた時。神様と、親との情念が通うた時。ね。私がこんなに苦しい苦しいと言うておるけれども、その苦しんでおる私の姿を神様は御覧になったらもっともっと心をなやまし、苦しみ悲しんでおられるであろうと思うた時に、神様すみませんという、そこに親神と氏子との心が通う。そういう所が分かるという事がですね、氏子ありての信心であり神徳である。
私共が受けなければ誰が受けるか。私共が受けた時にはじめて神様が助かって下さるんだと。私共の助かりがそのまま、神の助かりにもつながる程しの事なのですから。ね。私共がどうでも助からなければならないというその助かりの手立てを合楽理念では説くのです。 今日皆さんに、神様は一体じゃによってと仰せられるその神様を横の線で頂く、言うなら神様。一掬いの水にも一粒のお米の中にも、御神徳がこもっておるんだという事が分かると同時に、ね、これは信心を頂かねば分からない。いうならば、普通ではそれを不思議といい奇跡というおかげ、それは奇跡でも不思議でもない当然の事をして頂けれるおかげである。そういうおかげを私共が頂き現わして、それが縦の線とこういう。そういう言うなら、信心がいよいよプラス(+)という事になってくる。それこそ信心なければ世界は闇なりと自分の心の中に感ずる時、信心はもうはなせるものではない。 昨日のお説教の中にも申しましたように、昨日前講で中村先生がお話しをしてました。ね。親先生が、信心の根本は親孝行だとね。親に孝行してやろうと言う子供もいらんし、親孝行せんならん事も分かっておる者ばっかりなんだけれども、もうとにかく止むに止まれんで、親に孝行しとうて足らんという心を出さなければおかげにならんぞと。ね。本気でいうならば、親を大切にせろ先祖を大切にせろとこう言う。私共もそれを頂いておりますけれども、なかなか出けません。ね。けれども先達ってから何か、かいかいのようなものが出けて非常に痒いかった。かかずにはおられない。かくなと言われても、かかずにはおられない。もうかかずにはおれんという心をもつです、私共が親孝行せずにはおられんというようなおかげを頂いたら、これが本当のまあ、親孝行という信心の根本になるようなものじゃないでしょうかという話しをしてましたね。
今日私が皆さんに聞いて頂いた話しは、信心がせずにはおられない、おられん。ね。言うならば、おかげに誘われての信心ではない、真の信心を目指しての信心という事になる。それには、言うならば神様を横にも縦にも一つ理解し、頂かしてもらわなければならない。そこに神の情念。どうぞ、ね、信心も氏子あってのものなんだ。御神徳も人間の幸せの条件が足ろうというその御神徳も、これは人間氏子だけにしか与えられないものなんだ。というて誰でもこうやってばらまくように、与えられるというわけにはいかんのだ。氏子信心しておかげ受けてくれよという事になるという、そういう信心を体得し、そういう信心が分からせて頂いておる私は、お教会がお教会に、言うならば神は一体だけども、おかげが異なうという事になってくるんじゃないかというふうに思うですね。
どうぞ